軽口に癒された

 今後、両親に会う事は無いんじゃないか、と思いながら過ごしていた。でも、誰かが亡くなった時には、もう会うしかないんじゃないか、とも思っていた。迷っていた私の背を、何人かの友人が押し、昨日、私はおばあちゃんの通夜へ参列した。

 おばあちゃんは、いつもみんなに「私が生きている間は仲良くして!」と言っていたが、亡くなってしまった今、「じゃぁ、もう仲良くしなくていいのかよ」って、言えるかと言ったら、とても言えないのが本当の所だ。相手が生きていれば、どんなに悪い言葉で愛の言葉を罵ったとしても、それは苦い優しさとして伝わるだろうが、伝える相手がいないと言う事は、ただ冷たく乾いた空しさが漂うだけだ。

 タクシーで斎場入口に着いたのは、通夜が始まって30分後くらいだった。受付には父の会社の社員が立っていた。目眩で視界が直径30cmくらいに狭まっていたので、軽く挨拶を交わして私は中へ入った。案内の人の指示に従って、荷物を置き、焼香をした。会場がザワザワとするので、私は一心不乱に正面を見て、それから手を合わせるのが精一杯だった。「失礼ですが、親族の方でしょうか」と言う案内の人に、「いいえ」と答え、私は斎場の一番後ろの席に座って、花に囲まれたおばあちゃんの写真を見た。お経を聴きながら、色々な事が駆け巡って、倒れそうになったが、なんとか座って過ごした。

 通夜の儀式が終わり、せめて、顔を見て帰ろうと、お官の側に寄った。お官の中のおばあちゃんは、シワも殆どなく、つやつやした顔をしていて、変な表現だけど元気そうだった。死因は、脳梗塞心不全だったけど、老衰だと言われたそう。夕飯も普通に食べた後だったらしい。95歳。大往生。

 おばあちゃんも奇麗だったが、母親がやたら奇麗になっていて、なんか嫉妬心が沸いて、またそんな自分に苦笑した。昔、父親の友達に、「天衣無縫の様な人」と言われていたが、確かにそんな人だな、と遠くに見ながら思った。母親は、私の肩に手を置いて、「来てくれて良かった」と泣いていた。

 帰ろうとしたら、父親の会社の古い社員で高田純次みたいなのが来て、「帰っちゃやだー!」と私を捕まえたので少し残る事になった。数年ぶりに見た顔はただ懐かしく、子供たちは筍のように大きくなっていた。母方の祖母も来ていて、やたら元気そうだった。まだ畑仕事や裁縫をしているらしく、売り物の様な布バッグをくれた。

 何も食べたくも飲みたくもなかったが、みんなが終始を軽口をたたくので、リラックスしてきて、少しずつつまんだ。本当の所は分からないが、私だけが、鉛の様な不用な荷物を山盛り背負っている感じがした。孤独だったが、悲しみの中で少し安らいだ。この先、どうしたらいいのか、全く分からないけど、結果として、通夜に行って良かった。

 弟のワゴンで、駅まで送ってもらった。7才を筆頭に3人の子供たちは、カーオーディオから流れる歌謡曲に合わせて歌い、奥さんは数年前に比べて、3倍くらい大きな声になっていた。毎日の子供たちとの生活が目に浮かび、微笑ましくて、不審がられない程度に笑った。

 楽しくて、ここ数日の間に私の身に起きた不思議な出来事について話すと、弟は少し面白がった反応はしたが、とても現実的な事を言った。相変わらず、ちゃんとした男だな、と嬉しく思いながら、私は何なんだ、とさめざめとした気持ちになった。

 家に着いて、やはり明日の葬儀に参加すべきだろうか、と思ったが、自分の正義の為に、それはしないでおこうと思った。姉貴の葬式の時に買ったベロアの黒いスーツで出社し、一日を過ごした。いい天気だった。おばあちゃんは、きっと第三の故郷、パラオに寄ってから天国に行ったんだろうと思った。