「世にもふしぎな食事会の話」の話

 夏に思い出話をするのに相応しいと思うのはどうしてだろう。

 8/13のAile Blancheでの食事中、同席者から、「ちょうど、スージーさんが小川シェフの思い出話を、11章にも渡って熱く語っているから見てみて」と聞いたので見に行ってみた。

 11章に渡って書かれているものの、内容はこの一節に集約されている。

あるいは、ぼくのこの言葉を奇異におもう人もいるかもしれない、
(略)そこまで小川シェフを讃美するのは、
いささかバランスを欠いているのではないか?
(略)もしもそんなふうにおもった読者がいたとしても、
ぼくはけっして巧く答えることはできない。
どう答えたらいいかわからないんだ。
ぼくとしては、それはそれは夢のようにおいしかったんだ、
と言うほかない。
しかもそれは、それは恋愛に似たなにかだった、
バランスのとれた恋愛なんてあるはずがない。
ぼくと小川シェフはお互いのなかに眠っていた狂気に、火を点けあった。
それはなんとも甘美な、夢のような狂気だった。
 
 「世にもふしぎな食事会の話。その1

 確かに、当時の彼は正に恋愛のまっただ中で、“寝ても醒めても小川シェフだった”。そして、その熱狂は数年続き、ある日、まるで引き裂かれるようにして終わりを迎えた。たぶん。この表現で間違っていないと思う。

 今振り返って思うが、スージーさん企画の食事会に行くことがなければ、年に6回を越えることはないにせよ、フランス料理(ビストロ以下を含まない)の事を「たまには食べたいなぁ」と思うような思考にならなかったように思う。

 食べることは、生きることと直結しているものの、それだけでは終わらない。おいしい料理を食べることは、恋することと似ている。欠けている自分の何かが埋まったような、運命のような衝撃があるんだなぁ。

 もっとヤバいことを書こうと思ったんだけど、何故だか止めてしまった。