1日

 2つの関連した最後の日だった。OJTの引継ぎをし、次の日は専門学校の卒業式だった。引継期間の4日間は紛れもないデートだった。Fさんと私は、東京から西へと電車を乗り継ぎ、移り変わる景色を見ながらお喋りをし、TVのロケ現場を横目で見ながら、腕を組んで公園を歩き、神社へお参りをし、珈琲を飲み、合間に仕事をした。

 彼女が口にした、「最後のお茶の時間は、ケーキも一緒に食べたい」という我が儘は、結局、寄らなければならない店の昼休み時間と訪問時間が重なった為に実現した。向かい合って、互いのケーキを崩し合いながら、私達はゆっくりと珈琲を飲んだ。こうやって、楽しい事ばかりを伝えるだけで良かったんだろうかと、少し不安にも思ったが、今更取り繕っても仕方なかった。

 一人で職場に戻り1ヶ月の片づけを終え、日本人らしい長い挨拶を、狭いフロアの端から始め、最後の人に会釈をして、扉を出るまでに30分も掛かってしまった。外は、大粒の雨がゆっくりと降り始めていた。傘を忘れた私は、駅までYさんの傘に入れて貰う事にした。

 「傘。橋の所に居る、乞食から買いなよ」。Yさんが思い出したようにそう言った。「乞食?」、「ほら、居るでしょう? 高速道路と茅場橋が重なっている所に、帽子を被った男が。私も、この傘をそこで買ったんだよ」。

 橋の所に付くと、Yさんは慣れた口調で、帽子を被った男に「おじさん、さっきは傘をありがとう。今度はこの子にも傘を売ってあげて。綺麗なのにしてね」と言った。色黒でシワシワの痩せた男は、少し悩んだ後、台の上に並んだ30本程の傘の中から、緑色のビニール傘を引っ張り出した。「ちょっと、待ってな。今、骨が折れてないか確認するからな」、そう言って、傘を開いてゆっくりと回し、それが綺麗な事を確認してから、私の頭の上に翳し、「うん。可愛い。よく似合ってる」と満足そうに笑いながら言い、私に渡した。緑色は、私がその日に着ていたカットソーの色だった。

 「どうもありがとう」と言って、私はYさんに言われていた傘の金額を男に渡そうと差し出すと、男は「この傘はね、今は50円だから。50円だけ貰います」と言って、小さく震える乾燥した指先で小銭を選り、50円玉1枚だけをつまみ取った。屈託無くニコニコと笑いながら、男は話を続けた。「どうして、今は50円なのか分かる? 雨の日には、傘は使われたがってるんだ。本当は君にタダで上げても良いんだよ。でもね、乞食から、物を恵んで貰うなんて、失礼だろう? だから、君の為に、50円だけ貰うんだ。ありがとう」。そう言って、彼は飾りの沢山付いた帽子を軽く支えてお辞儀をした。私もお礼を言い、その場を立ち去ろうと歩き出すと、彼は私達の背中に向かって、「その事を。その事を忘れないで」と少し大きな声で言った。Yさんは、「あの人、話が長いんだよね」と言って苦笑した。私は50円の傘で暖まっていた。

 買い物をして歌舞伎町の上海小吃に着くと、宴会は既に始まっていた。私は、勝手に犬や雀、蛙を注文し、女の子達や男の子達が小さな悲鳴を上げながら、それでも最後には口に(人によっては「美味しい」と言ったり)する姿を、微笑ましい気分で見て、楽しんでいた。料理は今日も力強く、美味しく、楽しかった。

 途中で、歌舞伎町で働くTから、「Hがちゃんと仕事してるか見てきて」と言うメールが届き、宴をから席を外した。長いコートを着たHは、確かに言われたポジションに立っていた。しかし、明らかにボーっとしていて、私が3mの所に近付いて、手を小さく振っても、中くらいの声で名前を読んでも気付かなかった。石を投げてやろうかと思ったが、すぐ隣に立っていたホストに当たりそうで止めた。

 23時を過ぎ、2名の撃沈者が出た所で、私は徹夜を覚悟した。一見、夜は長そうに見えたが、あっという間に閉店の朝5時を迎えた。話は、泣くUちゃんの悩みを聞く事にほぼ終始した。彼女を見ながら、「私も、そんな味の涙を流していた時期があったな」と微笑ましく、そして、小さく羨ましいと思った。彼女の口から、胸の中に溜まっている物の一部しか出てこなかったが、玲子さんとミミに追い出された。店を出ると、いくつかの看板の電気が消えていたが、外は23時とほぼ変わらない人通りだった。

 寝起きのKが、「頭痛い」と押し殺すような声で言うので、私はTに電話を掛けた。朝の5時に、バリバリ起きている確証のある友人が居て、電話を掛けてるというだけで面白かった。「お疲れさまでーす」と言うTの声は、とても甘く、何だか良い匂いがした。「お疲れさま。あのね、歌舞伎町で、この時間にカコナールとか、風邪薬的な物を売ってる所って知らないかな?」。用件だけを話し早々に電話を切ってから、お邪魔をした謝りのメールを出した。メールを出してから5分後に、Tから「せっかく歌舞伎町にいるなら、ちょっと会えたら良かったのにね」と電話が掛かってきた。私も会えなかった事を、ちょっと残念に思いながら、Tがホストだったら凄く稼ぐだろうなぁと想像した。私はその時、もう電車に乗っていた。

 シャワーを浴び、全身に付いた煙草の匂いを落としてから、90分だけ眠って、新宿へ戻った。卒業式だった。