トマトスープ

 19時、銀座で仕事が終わった。中途半端な時間に昼食を食べたので、さしてお腹は減っていないが、この時間に電話をすればEが捕まる筈。久し振りに、銀座で夕食を食べるのもいいなと電話を掛けてみた。「1時間待てるなら、食べられるけど」。待てない。

 絶対にないのは分かっているが、有楽町HMVで「Chansons extraites(de Degustation a Jazz)」を探す。無い。出来れば、試聴をしたいのだ。渋谷か新宿に行くしかないだろう。

 帰宅する電車の中で、猛烈にトマトスープが食べたくなる。セロリと玉ねぎの入ったトマトスープ。

 材料をキッチンに並べ、CD棚からGlenn GouldJ.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集」を探す。見付からない。Edwin Fischerと迷って、Sviatoslav Richterの物を掛ける事にした。

 静かなピアノの旋律と、乾いた玉ねぎの皮を剥く音がとても良く合う。生きている物に触れながらの単調な作業は、とても気分が落ち着く。

 たっぷり、No.6までかけて下ごしらえ。薄暗い光の中でセロリを見ると、智美の事を思い出す。彼女はセロリが大嫌いだった。二人で暮らし始めた頃、「私の冷蔵庫にセロリが入る日が来るなんて想像出来なかったけど、こんな事もあるのね」と苦笑いしていた。そういう小さな出来事を思い出す度に、私は彼女を、私が思っていた以上に、愛していたのだなぁと思う。

 根野菜と茸を炒め、ブイヨンを足し、セロリを加える。お腹は減っていないのだから、ゆっくりと丁寧に灰汁を取っていく。とても楽しい。

 CDを2枚目に入れ替えて、母に貰ったBvlgari Pour Hommeを付ける。キッチンから離れ、煮込んでいる振りをしながらMacに向かう。

 母は、父から贈られた香水しか付けないような女性であるから、この香水が(男女共に使われているが)実はメンズ物であるなんて事など気づいていない所か、全く興味がない。とてものどかな気持ちになる。そしてこの香りは、意外にセロリと良く合う。指の先に付いたセロリの香りと、Bvlgari Pour Hommeの香りを交互に嗅いでみる。合う。

 とても眠い。お腹は減らない。キッチンでは、直径25cmの寸胴に七分目まで入ったトマトスープが、揺れながら私が来るのを待っている。バスタブに湯を張りながら、お腹が減るのを待とう。